| 序、原理研究会問題とは |
| 一、自治破壊行為 |
| 二、原理研究会問題再燃 |
| 三、原理研究会問題の隠された機能 |
| 四、承諾誘導 |
| 五、破壊的説得 |
| 六、まとめ |
東京大学において例年行われている「オリエンテーション」、つまり新入生歓迎行事では伝統的に原理研究会(以下、略称として「同研究会」・「原理研」も併用する。)という名の団体が参加を禁じられています。これには、「学生自治会の最高意思決定機関である代議員大会において、毎年同団体のオリエンテーションへの参加が保留されているから」という理由があるのです。学内外において原理研究会が統一教会の実質的な下部組織であるという共通認識があるとしても、政治・宗教団体の下部組織が他にも無数に存在する中で、その参加すらも認めない、つまり学生の一部を自治活動から排除するという異例の措置が「学生の自主的な活動の場」を標榜する場で執られてきたのはなぜなのでしょうか。毎年のことではありますが、そうした自主的活動の場に新たなメンバーを受け入れるこの時期にもう一度その理由を振り返る必要があると思われます。
原理研究会に対する排除措置の最も大きな根拠は、「自治破壊行為を繰り返すから」というものです。つまり、民主主義は本来その構成員全員の意志決定に参加する権利を保障するものなのですが、民主主義の前提自体を覆す構成員だけは、参加を拒否されてもしょうがないという理屈です。そこで、ここではどのような行為が「参加権すらも剥奪されるべき」行為なのかを、原理研究会の行為を例に考えてみましょう。ただしここでは終戦後から70年代後半にかけて、いわゆる"戦後左翼"と呼ばれる勢力が学生自治を担っていた時代、原理研究会は学内唯一といってよい右翼勢力であったという時代背景を意識する必要があると思われます(詳しくは後述)。なお、以下は全て「原理研究会が行った自治破壊行為」としてとり上げられたものを第46期(95年度)駒場祭委員会・96年度オリエンテーション委員会・第47期(96年度)駒場祭委員会が学内の諸団体に資料提供を呼びかけて収集した資料をもとに、原理研究会への直接事情聴取を行った上で検証した情報でもあります。
73年、統一教会会長・久保木亮光が理事長を務める国際文化財団が、東大生をアメリカに無料招待する「国際指導者セミナー」を開いた。出発前、主催者側は「原理研究会や勝共連合とは関係ない」と説明していたとされるが、実際は「統一原理」の講義ばかりであったため、学生達は「話が違う」と騒ぎだし、主催者に詰め寄ったが、主催者側は開き直り、多くの学生は独自に帰国したといわれる。
76年、統一教会会員が経営する寮に、東大の公的寮と思わせるような宣伝をして新入生を入寮させたといわれる事件。
78年、原理研究会の擬装サークルとされる正道術部のメンバーが駒場で二度にわたって暴行をはたらいたとされる事件。一度目は5月13日12時ころ、原理研の友好サークルである正道術部がトレーニング体育館で演武会を開催しようとしたところ、反原理共闘(原理研究会と敵対する新左翼の集合)のメンバーがこれを妨害。正道術部が体育館から引き上げ北寮前のT字路において武術の演武を行ったが、妨害を続けた反原理共闘のメンバーと小競り合いが起こった。二度目は6月16日午後7時頃、上記のトラブルにより学部が正道術部のトレーニング体育館使用を禁止し、自治会委員長が練習していた正道術部にそれを告げに行ったところ、またしても小競り合いとなり、自治会委員長が鼻血をだした。
原理研究会=勝共連合が警察と結びつき、学内でスパイ活動を行っているのではないか、という噂があったなか、79年3月、この噂を裏付ける勝共連合幹部の手帳が拾得されたとされる事件。
79年、原理研メンバーが学費納入に来る新入生を駒下の三菱銀行の前でまちうけ、全国大学原理研究会の機関誌「大学と理想」を売った事件。
82年11月10日、原理研究会・共産主義研究会(原理研究会のフロントサークル)のメンバー約十人が、彼らの立て看板を持ち去ったり彼らに暴力を振るっていた反原理共闘に対して抗議をするために、駒場寮にある彼らの部屋に行った。しかし、ノックをしたら入口で門前払いをされ集まってきた寮生らに駒場寮から退去させられたため、28日に12名で再びノックをせず部屋に入り、内鍵をかけた。寮生が助けに入るまで、室内にいた反原理共闘メンバー3名と喧嘩となり負傷者が出た。うち1名が救急車で運ばれ、全身17ヶ所の打撲。この後、警察・機動隊が正門前に来て、自治会委員長を含む4名が不当逮捕されるという事態にまで発展する。
84年9月の自治会と学部当局との交渉の際、自治会常任委員は原理研究会メンバーに対して入り口でも公示していなかった条件をもちだしてが入場を拒んだ。原理研究会メンバーは、教室(743教室)の反対側(外階段側)の入り口でも公示していなかった条件をもちだしてが入場を拒んだ。原理研究会メンバーは、教室(743教室)の反対側(外階段側)の入り口から会場に入場したが、それを半ば強制的に退出させた常任委員らと当局の間で学部交渉への原理研究会メンバーの参加の是非を巡って意見が対立し、以来4年間学部交渉は開催されなくなってしまった。
85年4月「原理研の被害から東大生を守る会」が開催した屋外での反原理研講演会を原理研メンバーが妨害した事件。原理研究会メンバーはわめいたり、マイクを奪おうとし、参加者との間で小競り合いに発展した。
85年6月に行われた自治会委員長選挙において、原理研のフロントサークルのメンバーが選挙管理委員長の指示に従わず選挙違反のビラを撒いたり、選管公報(選挙管理委員会の公報ビラ)や選対公報(立候補選対の選挙活動ビラ)を床に落とすなどした事件。
85年11月19日、実際には講演者がいないにもかかわらず、「定例有名人講演会」と銘打って教室を占拠・封鎖したとされる事件。実際には、原理研の講演会に反原理共闘のメンバーが妨害を加え小競り合いになったのを理由に、自治会委員長が「中止させよ」と教務課に圧力をかけ、教務課が教室使用許可を取り消した。8.の青空講演会とちょうど逆の形にあたる。
87年6月30日、講演会と銘打って、学外生を大量動員して教室を占拠しようと企てたとされる事件。実際には、85年の事件と同じように、講演会をしようとした原理研の先回りをして、反原理共闘のメンバー(学外者含む)が教室の周りを固め、一触即発の状態になったのを理由に、教務課が教室使用許可を取り消した。
88年6月、4年ぶりに再開された学部交渉において、オブザーバーとして参加していた原理研究会メンバーが議長の制止を無視して発言を続け議場が混乱、「一度認めたオブザーバー承認の取り消しをすることには納得いかない」と主張する学部当局と学生の間でオブザーバーについての合意が成立せず、以後2年間、学部交渉が停止した事件。
89年におこったとされる事件。詳細不明。
90年12月の自治会委員長選挙に選対「リバース」を立候補母体として原理研究会のメンバーが立候補した。この選挙において、選挙管理委員長が選対「クラスの声」と同じ民青同盟委員であることを理由に、選対「リバース」が選挙違反とされる行為を繰り返した事件。具体的には、「クラスの声」側の「原理研=勝共連合の策動」という宣伝に対して、「民青同盟=共産党の策動」という宣伝をしたり、選挙管理委員長の指示でビラを回収されたことに対抗して選管公報やクラスの声のビラを回収して、ビラ回収合戦に発展した。
94年3月18日、当時のオリエンテーション委員長であったAさんが赤門前で、新入生に対して勧誘をしている原理研メンバー(二人組)の間に割って入り、「新入生に原理研についての注意を呼びかけようとした」ところ、原理研メンバー一人ともみ合いになり腕章を引き千切られた事件。この原理研メンバーは、96年度オリエンテーション委員会に対してAさんに直接謝罪したいとの意を表明している。
以上、原理研究会が行ったとされる事件を最大限振り返ってみましたが、10.・11.で見られるとおり、この中には左翼の政治的な優位が可能にした一方的な事実認定が多分に含まれていることが充分推察されます。そうした点を考慮し、「参加権すらも剥奪されるべき」自治破壊行為というものを考えると、
○一般にいう暴力行為を組織的に行う行為(暴力)
○適正な手続きを無視して物理的手段を行使する行為(手続き違反)
といった基準が浮かび上がります。実際この観点に該当し、なおかつ実証可能だった3.・6.・7.・12.の事件は、第46期駒場祭委員会も問題視し、同研究会に直接反省・謝罪を迫りました。それに対し、同研究会は95年11月14日付けのビラで以下のように「謝罪・反省」をしました。
(3.に対して)
「5月13日について、反原理共闘との激しい対立の中で、原理研究会の友好サークルである正道術部メンバーの演武会を妨害した反原理共闘メンバーに対し、たとえ正当防衛であったにしろ殴り返した事実があったことを認めます。また6月17日について、トレーニング体育館の禁止決定を伝え退場させようとしたS自治委員長に対し、仮に不可抗力と言えるものであったにしろ鼻血を出させた事実があったことを認めます。原理研究会としては学内民主主義を守るためににはいかなる理由であっても暴力的手段に訴えることは断じて許されない行為であると考えています。そうした行為について原理研究会として正式に反省・謝罪し、今後二度とこうした行動に出ないことを誓います。」
(6.に対して)
「駒場寮において一時的に監禁行為があったことを認め、またそのことが暴力容疑を生み出すなど寮生及び学生に不安を与えたことの問題性を重視し、このことを反省・謝罪し、今後二度とこうした行為を行わないことを誓います。」
(7.に対して)
「当時の学生自治のルールに反する行為を行ったことを認め、その問題性を十分認識しています。そこでその行為について反省・謝罪し、今後二度とこうした行為に出ないことを誓います。」
(12.に対して)
「学部交渉という学生要求を学部と話し合う学生自治にとって重要な場において、当時の学生自治のルールに反する行為を行ったことを認め、そのことを反省・謝罪するとともに、二度と繰り返さないことを誓います。」
さて、前段では原理研究会が実際に行ったとされる行為を参考に、「参加権すらも剥奪されるべき」自治破壊行為の一般的な理屈を考えてみました。原理研究会の実際の対応を軸とした経緯説明としてはこれ以降の進展はなかったのですが、学生自治の場において「原理研究会問題」がこれで終わったわけではありませんでした。次は、実際に東京大学教養学部で「自治破壊行為」理論が実際にどのように機能してきたかについて考察するために、第46期(95年度)の駒場祭委員会の同研究会への対応とその前後の経緯を振り返ってみたいと思います。
予め断っておくべきこととして、私自身の立場を明らかにしておきます。私は第46期及び第47期駒場祭委員会メンバーです。従ってこれ以降の事件の記述においては可能な限り客観的な記述を心がけようと思いますが、部分部分に私の感情が入ってしまうということがあることを念頭に置いて下さい。
第46期駒場祭委員会は原理研究会に対して、
1. 学生自治を尊重する態度、
と
2. 駒場祭委員会及び他の参加団体との信頼関係を構築できるか否かの可能性、
の二点を検証するために、同研究会と三度にわたる直接事情聴取を行いました。その事情聴取の結果、駒場祭委員会は同研究会との間の信頼関係回復の見込みがあると判断し、一方で企画参加する学生との信頼関係回復の見込みをはかる意味で、形としては駒場祭委員会規約第五条に従って95年11月16日の代議員大会に「原理研究会の駒場祭への参加保留を解除する」という提案を出しました。代議員大会の場では、一部の学生から「ダメなものはダメ」「自分を弁護するような記述が含まれている謝罪文は謝罪にはならない」という感情的な反論が出た一方で、「謝罪文には被害者個人に対する補償という観点が欠けている」「証拠がないというだけで不問にしている事件があるが、それは駒場祭委員会の怠慢ではないか」という意見もありました。結局、採決時には駒場祭委員会の提案に「謝罪は不十分であるから参加は保留する」という修正動議がかかり、さらに強い「参加拒否」という提案とともに可決され、原理研究会は第46回駒場祭には参加できませんでした。当の駒場祭委員会にとっても、「原理研究会と企画参加する学生との間の信頼関係を鑑みれば、現時点では時期尚早であるかもしれない」という懸念はあったので、その採決結果自体は予想の範囲内でした。
しかし、その後思わぬところから駒場祭委員会に対する攻撃が始まりました。当時の自治会正副委員長常任委員会、つまり自治会執行部は駒場寮の入寮募集継続(94年度以降学部当局が入寮募集を停止するとしたのに対し、寮委員会が独力で入寮募集を継続すること)に反対していましたが、それに対抗するオリオン選対(委員長候補は駒場寮生で後に駒場寮委員長及び学友会学生理事会議長に通算3回就任。副委員長候補は駒場祭委員で、当時の駒場寮委員会メンバーを中心に学友会学生理事会・駒場祭委員会のメンバーが結集した選対)発足の気配を感じた自治会執行部が、駒場祭終了後の自治委員長選挙を意識して「Bさん(当時駒場祭公募委員と自治会常任委員を兼任。その自治会委員長選挙では委員長候補として立候補)以外の駒場祭委員会のメンバーは、原理研究会を学生自治の場に招き入れようとした」という内容のビラを全学に撒いたのです。
駒場祭委員会では、原理研究会に関する議題をはじめとして会議の内容を公開すると委員の自由な発言が脅かされる可能性があるような話をする時は、秘密会(議論の内容を秘密にする規定)という規定に則って審議をしていました。当然駒場祭委員には、その内容についての守秘義務が課せられていたのですが、ビラの内容は内部の委員の証言という形をとっていたため、「このように事前に総会で問題提起をすることもなく全学に内容を暴露するような行為は組織破壊行為であると同時に一種の自治破壊行為(手続き違反)である」との判断から、(当時としては)異例の駒場祭終了後の総会がAさん(同じく駒場祭公募委員と自治会常任委員会書記局員を兼任していた、又Aさんは一、の15.と同一人物)及びBさんを招喚して行なわれました(その総会の内容は秘密会規定のため公開できません)。
その後選対クラスの声(=自治会執行部)とオリオン選対との対立選挙として自治会委員長選挙がはじまり、自治会執行部の駒場祭委員会への攻撃は、選対クラスの声のオリオン選対に対する攻撃へと転化していきました。その自治会委員長選挙において、駒場祭委員会側は選対クラスの声のビラの内容に含まれた「駒場祭委員会が原理研究会と交渉中に差し入れをもらった」、「駒場祭委員会のメンバーがサンハウス(駒下にある原理研究会の勧誘センターの通称)に足繁く通っていた」といったデマ宣伝に対して、「実際に差し入れを受け取ってしまった」、「実際Aさんが指摘する委員がサンハウスに調査目的で足を運んだのは、彼が駒場祭委員になる以前、Aさんが事務局長兼財政局長を務めたオリエンテーション委員会に所属していた時期の一回のことである」と事実説明をするにとどまりました(結局自治会委員長選挙は選対クラスの声の勝利に終わりましたが、その後の自治会執行部メンバーの選挙ではオリオン選対陣営が勝利し、駒場祭委員会への攻撃は終わり、駒場寮入寮募集継続は現在に至るまで自治会執行部の方針として定着しました)。
第46期駒場祭委員会に失点があったとすれば、「被害者個人に対する個人補償の観点を欠きがちであった」・「代議員大会に保留解除を提案する前に保留を解除した」の二点であると思われました(いま一つ「他団体にも情報提供を呼びかけるべきであった」というものもあったのですが、実際96年度オリエンテーション委員会が呼びかけを行っても、新たな資料を提供した団体はありませんでした)。この点を考慮に入れて、第47期駒場祭委員会も引き続き同研究会への事情聴取を行い、個人補償を含んだ「謝罪・反省」を行うよう勧告したのですが、「個人補償をすると言ってしまうと、際限ない譲歩を迫られることになるのではないかと懸念している」という以外、同研究会からの回答はありませんでした(これをもって、「謝罪・反省する気はもともとなかった」と解釈することもできなくはないのですが、同研究会からの正式回答は出ていません)。
さて、前段までの事件の経緯からは、以下の二つの問題が浮かび上がってきます。
一つは、実際に原理研究会とのやりとりの中で明らかになることとして、これまでにも何回か論究した戦後の学生自治の大きな流れにまつわる問題です。詳しくは「東大自治の歴史」を参照していただければいいかと思いますが、東大における学生自治は主として「共産党を主軸とした左翼同士の主導権争い」の性格が際だっています。左翼とは本来「保守」を意味する右翼と対比させた「革新」を意味する用語ですが、日本においては軍国主義あるいは国粋主義と対比させたマルクス主義を意味します。日本では太平洋戦争当時の軍国主義に対する反動から戦後はマルクス主義を理想とする「戦後左翼」がつい最近まで思想界をリードしてきました。東大においても、60年代から70年代にかけて東大闘争を契機に盛り上がった学生運動の中で、共産党及びその下部組織である民主青年同盟を中心とした学生自治会とそれに対抗する様々なセクト(〜派と呼ばれ、政党に立脚しない左翼諸勢力、中には「ノンセクト」と自称しセクト以上に過激な実力行使を行う勢力もあった)が加わった全共闘が激しく対立していました。しかし、一の4.の森下スパイ手帳事件に象徴されるように、そうした学生運動を警戒した公安警察との関係において、左翼=自治会を中心とした学生運動推進グループにとって反マルクス主義を標榜する原理研究会(左翼からは時に「原理研究会=勝共連合」と呼ばれた)は不倶戴天の敵だったのです。その左翼対右翼の対立の諸側面において、学生自治の場において圧倒的優位にあった左翼側から原理研究会の行為を記述すれば、全てが「自治破壊行為」となるのは自然だと思われます。なぜなら、学生自治を規制しようとする公安警察に協力しているという推定が確証されれば、その団体の行為は全て学生自治の破壊を目指した行為と推定されうるからです。従って、「左翼対右翼」の問題は、左翼優位の思想状況においては「学生自治対原理研究会」という問題に還元され、セクトが衰退した80年代以降においては、「共産党対原理研究会」という対立に帰着するのです。90年代以降、学生自治に関わる人の面では次第に非共産党・非左翼メンバーが増え始めたとはいえ、学生自治団体は95年度当時においても左翼の影響を根強く受けていました(各団体の原理研究会に対する見解は各団体の紹介冊子を参照)。そうした状況への配慮こそ、第46期駒場祭委員会に最も欠けていた点であるといえるでしょう。
さらに重要な点は、原理研究会を排除した学生自治内部の問題です。最も象徴的だったのは95年度自治会委員長選挙における第46期駒場祭委員会とオリオン選対に対する攻撃ですが、その前年の94年度においても、駒場寮委員会及び学友会学生理事会のメンバーが共闘し、駒場寮入寮募集継続に反対する自治会執行部の方針を批判すると同時に、東大確認書において記述されながらも結実しなかった全学協議会(全学の教官・学生・職員が大学自治に対するそれぞれ固有の価値をもって参加する協議会)の実現を方針に掲げて選対新しい風を発足させました。それに対する自治会執行部(=選対クラスの声)の攻撃は、新しい風のビラにあった「現自治会執行部=共産党」という指摘を根拠にした、「新しい風=原理研究会」というレッテル貼りでした。つまり、「思想・信条の違いを越えて学生の要求を実現する自治会の場で、『共産党』を名指しで批判する行為は自治破壊行為であり、そうした行為を行うのはこれまでも自治破壊行為を繰り返してきた原理研究会に違いない」というこじつけです。この戦略は、自治会委員長選挙以外の場でも「自治会執行部=共産党」という批判を封じるために一貫して機能してきました。実際「無党派」を標榜して80年代に一時的に自治会正副委員長の座を共産党から奪った七夕〜紫陽花選対の後を受けたものの、立候補者不足に悩まされた天の川選対の立候補者が自ら原理研究会メンバーであると告白したという事実があったため、「無党派=反共産党=隠れ原理研究会メンバー」という推定は説得力がありました。
さて、これまでの記述で、いわゆる原理研究会問題といわれるものの経緯とその機能について、「自治破壊行為」という観点から考察してきました。しかし、原理研究会の問題とされているものは「自治破壊行為」のみではありません。もう一つの問題点とは、「洗脳」とその結果として学生を「反社会的行為」に動員するというものでした。つまり、原理研究会に入ってしまうと「洗脳」され、「自分の意志とは無関係に」霊感商法などの「反社会的活動」にかり出されるというのです。以下ではこれらについて考察を進めましょう。
まず、「洗脳」についてですが、「本人の意思とは違う行動を(無意識的にしろ)強要する」のが本当であるとすれば、自治破壊行為以上に学生自治をないがしろにするものであるといえます。なぜなら、「自分に関することは自分で決定して、それを遵守する」というのが自治の根本原則であるからです。しかし、いきなり「本人の意思とは違う行動を強要する」というのは無理があります。大学新入生の状況を考えれば、「洗脳」を意図する団体は、
まず自団体への加入を承諾させ、居着かせること
を第一目標とするでしょう。こうした働きかけをここでは「承諾誘導」とよばれます。承諾誘導の代表的な方法には、以下のようなものがあります。
1.返報性を利用した承諾誘導
2.コミットメントと一貫性を利用した承諾誘導
3.社会的証明を利用した承諾誘導
4.好意を利用した承諾誘導
5.権威を利用した承諾誘導
6.希少性を利用した承諾誘導
これらについて説明する前に、注意しておくべきことがあります。まず、これらの手法は人間の社会性を可能にする習性に基づくものであり、この習性は一概に否定されるべきものではないということです。従ってこうした手法を駆使するからといって、その団体が「洗脳」を行う反社会的団体であると判断する基準にはなりません。以上を念頭においてさっそく説明を始めましょう。
「ギブ・アンド・テイク」という原則は、人類社会に普遍的に存在する社会原則です。この原則があるおかげで社会的分業や交換市場が成立し人類の進歩があったといえるのですが、「受けた恩義には将来必ず報いなければならない」という義務感は一人暮らしを始める人なら必ず一回は出会う新聞勧誘員にも押しつけられます。「恩を受けても借りと思わなければいいじゃん」というふてぶてしさを持てる人(こういう人は一般に社会性のない人といわれます)は別ですが、最初に受けた(押しつけられた)恩義は義務感という不快な感情をもたらすため、相手に対する評価(つまり相手が気に入るか気に入らないか)などの判断要素を捨象させてしまいます。まだ経験はないかもしれませんが、不快な印象の歓迎されざるセールス勧誘員、気にくわない知り合い、聞いたこともないような組織団体の人など、たいていは嫌われている人の思うつぼにはまってしまった経験を、特に専業主婦(そのせいで「オバサン」になってしまった人もいる)の方は持っていると思われるので、ご自分の身近な人に聞いてみるといいかも知れません。
さらに恩義には確固とした形をもたないものが多いので、しばしば最初に恩義を与えた(もしくは譲歩した)側に主導権が移り、不平等な交換に導かれる場合が多くなります。セールスマンの世界ではドア・イン・ザ・フェイスというテクニック(最初に無茶なお願いをして拒否されたら譲歩し本来のお願いに格下げするというテクニック。対象者は最初に申し出た内容との差から、次の申し出に対して過小評価してしまう)として定着しています。譲歩や贈り物という形式をとるだけで、受け取る側にとっての価値とは関係なく、恩義は成立してしまうのです。政治家に個人的に借りを作ってしまうと、所属政党の主張とは関係なくその人に投票してしまう人が後をたたないのは、その良い証拠かも知れません。
その一方で、多くのサークルなどで新歓期に行われる新入生に対する「おごり」は次の年の新入生に前の年おごられた側が「おごりかえす」という良き恩義の連鎖の伝統をつくっています。また交渉事の際には、最大の要求を最初に提示し、それが確かに理想的であるが相手の立場を考慮して次善の選択肢で妥協しあうという作法は、お互いの誠意を確証し合うという正の精神的効果を生み出します。「善意には拒否よりも善意で応える」という態度や「譲り合いの精神」は人間関係を良好にするので、返報性は本来人間が社会的に成長する過程
ほとんどの人は自分の言葉、信念、態度、行為を一貫したものにしたい、あるいは一貫していると他人に思わせたいと考えます。自分のアイデンティティを確立する際の最低条件といえるでしょう。さらに一貫性はその人の信用を形成するだけでなく、周囲の人にとっても安定した関係を保障する効果もあるのです。
何らかの活動を開始するにあたり自分なりの抱負を表明させることは、その本人にとって目的意識を持たせる効果があり、自分なりに充実した活動を切り開いていく機会を作り出すことにもつながります。また、また集団で一つの目標に向かって活動する場合、構成員各自の一貫性がなければその集団が集団として機能せず烏合の衆となることは明白です。
しかし、最初に極端に有利な条件をつけて契約を取り付け、十分に契約への関与を進ませてから有利な条件を奪い去るという悪徳セールスマンのローボールテクニックに引っかけられたりもします。これは状況の変化に際して自分の態度を変更する場合に、正当化理由をなんとか作り出そうとするという一貫性の隠れた機能を利用した手法です。本来であれば、セールスマン側が変更された条件を補完する条件、つまり契約を続行させる正当化理由を新たに提示するのが筋なのですが、提示がない場合に自分の態度を変更する正当化理由を作るという負担を回避するために、人は態度の一貫性を保とうとするのです。
人間は先天的に社会的動物であり、他者の振る舞いを常に参照しながら自分の振る舞いを修正しています。時には他者の反応から自分の反応を逆に知覚したりもします。そうした反応の共有が人間の社会性を構築していくのです。多くの観客を動員するイベントの盛り上がりには、サクラ・字幕・効果音など様々な演出がつきものです。周囲の人が自分と同じように興奮を感じているという知覚、つまり興奮の共有はほぼ間違いなくその人自身の興奮も高める効果があるので、演出はエンターテインメントには不可欠なものといえます。これは一種の集団ヒステリーなのですが、多くの人にとって興奮の共有は心地のよいものなのです。
こうした社会的証明への欲求は、特に今まで経験したことのないような状況に直面するなど、その人の経験によってどうふるまえばよいか判別が困難な状況で強くわき上がるようです。つまり、その人自身のアイデンティティの確立が困難であるほど、人は社会的証明を求めるのです。言い換えれば、自分の行動や選択の正当性を自分自身だけでは確証できないときこそ、人は「自分は正しかった」という証拠を自分以外に求めるのです。これは、自らが属する宗教集団の予言が外れた直後や自らの属する政治集団が選挙に敗れた直後ほど、より多くの人の加入を目指し出すという現象が証明しています。
さらに、多くの場合、ある人が周りの人の様子をうかがって自分がどうすべきか決めかねている状況では、同時に周りの人もその人の出足をうかがっているので、しばしば集団的無知という現象を引き起こします。例えば、急な心臓発作などで他人の救護が必要となった人の生存確率は、近くにいる人の人数に反比例するといわれています。つまり、近くにいる人が多いほど、お互いがお互いの出足をうかがうという集団的無知が発生しやすく、逆に助けを求める場合に多人数に同時に求めるのではなく、誰か一人に焦点を絞って求めた方が(誰が救急車を呼んで誰が他の協力者を集めてくるといった)適切な役割分担が迅速になされるというのです。
さらに、社会的証明の影響力は、主体と客体の類似性に比例して高まるようです。つまり周りにいる人が自分と似通っているほど、その人の行動はそれら周囲の人たちの行動に同調しがちであるというわけです。
こうした社会的証明を求めようとする欲求、及び社会的証明の効果を熟知していれば、一人で熟考されてしまってはとうてい引き出すことができなさそうな承諾をなんとしても引き出すために、その人の周りにできるだけその人と似通ったサクラを配置するという戦略が思い浮かびます。
自分に好意を持ってくれている人の期待には応えたくなるのが人情というものですが、特に東大生には商品価値があるので、過度の好意や称賛には注意が必要です。共通の目標を持って多くの人間が関わる活動は人間関係を広げる上で貴重な経験となるのですが、そうやって形成された人間関係を盾に良からぬことを考える人もいるので注意しましょう。特に、一人暮らしを始めると見返りなしの好意に出会う確率は急激に低くなるといえるので、「あなたが今住んでいるアパートの部屋の出身者には出世する人が多い」、「同郷のよしみで」などと自尊心や親近感を過度に高めるような言葉にはだまされないようにしましょう。
好意を利用した承諾誘導には特に多様なバリエーションがあります。自分に対して好意を示してくれる相手の言うことは信じたくなるのもいうまでもありません。刑事ドラマでおなじみですが、あらかじめしかり役・なだめ役という二つのキャラクターを用意し、知覚のコントラストでこの効果を高めることもできます。
人が従うべき権威をシンボル化するのは体系的な社会化の手法としては合理的なもので、肩書き・服装・装飾品などで象徴された権威に従うのは円滑な社会運営にとっては有益なことです。しかし、その副作用として、警察官の制服をみると警察手帳をみなくても命令に従ってしまったりするようになります。人の発言を評価する場合にはその人の肩書きの影響を無視することはできませんし、むしろ発言者の立場を意識して話を聞く態度は合理的な適応行動といえます。しかし注意しなければならないのは、権威はそれを背景にした働きかけの誠意をも担保するわけではないということです。つまり、権威のある人物はいついかなる時でも責任と誠意をもって行動しているわけではないし、中には権威をかたる輩も存在するということを意識しておく必要があるのです。「あなたの先輩からの紹介でお電話させていただきました」というのは十中八九嘘です。
さらに、権威は本来形のないものですが形をとって表現される、つまり象徴されることが多いため、そうした象徴から権威の存在を連想することに我々は慣れています。この慣れのために「ある俳優が白衣を着て連ドラで医者役をやっていた」&「その連ドラではその役は名医であった」→「同じ衣装で同じ役者が薬品のCMに出演している」&「その役者の宣伝する薬品はすぐれた医学的効果がある」といった連想にだまされやすくなっています。
「今が買い時」、「今しか買えない」、「秘伝の〜」などの売り子の言葉を聞いてしまうとつい買いたくなる人は多いでしょう。そこまであからさまなら可愛い気はあるのですが、機会や自由の縮小をもって内容を確かめもせずに価値を感じてしまうという人間の習性を利用する手法にはより巧妙なものがあることに注意して下さい。規制(最たる者は猥褻規制)が逆に対象への興味関心を煽ってしまうという状況は近年ますます多く見受けられますが、これを逆手にとる人が増えるのも理解に難くないでしょう。手にすることが難しいものはそれだけ貴重なものが多いのは事実ですし、一般に自由の減少は本人にとって有益ではないので、そうした事態を避けようとするのは適応行動には違いないのですが、希少性はしばしばでっち上げられたものであったり時には意図的に作り出すことも可能であるということに注意すべきです。
すでに述べたような数量的希少性・時間的希少など、自由の縮小を様々な手法ででっちあげる方法はそれなりにバリエーションに富み、それだけ気づくのに時間がかかるのですが、もっと手っ取り早く希少性の効果を生じさせる手法があります。それが競争という手法です。競争とは、ある有限の資源をめぐってお互いに奪い合う状況をいいますが、そうした場を設定してしまえば後は参加者が競って希少性を高めてくれるのです。競争を導入することによって努力を喚起できるという機能は有益なのですが、ともすれば努力を積むよりも「勝つことこそ全て」という手段の目的化が発生し、競争の賞品の価値を見誤らせてしまうという結果を招くというのは受験制度の問題としてしばしば取り上げられているので理解できるでしょう。中には賞品の価値を見誤らせるために競争が導入される場合もあります。 新歓期なるものを設定して、諸サークルの加入期限を感じさせてしまうことが、非健全な団体への新入生の加入に拍車をかけている気もしないでもありませんが、そういう時期だからこそ周りの状況に右往左往せずに自分にとって最適な選択をするべきです。
以上は人間が社会に適応するために先天的・後天的に身につけている無意識の習性です。こうした習性自体は、システムが複雑化した現代社会において意志決定を簡便にしてくれるという利点があります。しかしその一方で、(簡便法を用いずに)じっくり考えていたら本来は成立はしなかった承諾を人から引き出そうと考える人たちにとっても簡便法を提供することにもなります。そうした承諾誘導に対する防御法は、精神論から科学的方法まで様々あるのですが、その本質は自分自身の行動を(可能な限り)客観的に見つめ直すという自己表象力を養うことです。しかし、日常生活を送る上での全ての意志決定を片っ端から見つめ直すというのは多大なコストであり実質的に不可能と思われます。同時にそのコストは見つめ直した結果得られるメリットに十分引き合うものであるかは疑問です(手の込んだ承諾誘導を行うプロの中にも、客に対する誠意のある人は多い)。従って、自分自身で意志決定に優先順位をつけて、優先順位が高い決定をピックアップして、選択的に見つめ直しを適用するのが現実的でしょう。大学新入生の大半が入学直後に加入した団体をその後の四年間の大学生活の基盤とし続けるという現象からみて、自分が加入する団体を選ぶという意志決定はかなり高い優先順位が与えられてしかるべきでしょう。さらに、大学で学ぶことの意義は様々な活動を行う中でそうした自己表象能力を養う、別の言葉で言い換えれば自分の世界を広げるということなので、入学直後の忙しい時期ではありますが、決して簡便法に頼って自分の加入する団体を選んではいけません。どの団体に加入したかで自分の大学生活が結果として左右される場合が多いのですから。
前段では、新入生の皆さんを団体に加入させる場合の承諾誘導の方法について述べました。そのような手法は意識的にしろ無意識的にしろその団体の健全性に関わらず汎用的に用いられるので、「洗脳」を行う団体に特有なものでありません。そのような方法を用いるからといってその団体が「洗脳」を行っていると即断はできません。むしろ肝心なのはそうした方法に惑わされずに自分の加入する団体を主体的に選択するということでした。
では、「洗脳」行為の本質とは一体何なのでしょうか。研究者の間では、「洗脳」を行い反社会的な活動を信者に行わせる団体は「破壊的カルト」や「カルト集団」(名前にインパクトがありすぎるのですが宗教団体とは限らない)などと呼ばれ、その手法は「洗脳」ではなく「破壊的説得」や「マインドコントール」などといわれます。そうした破壊的カルトへの入信過程には以下のような特徴が見いだされています。
1.一般に学習過程(心理学でいう認知的再構成)を含み、逆にディプログラミング(「洗脳」された信者を、家族・一般社会に引き戻すいわゆる「逆洗脳」)の本質も当然、認知的再構成と同じトリックにひっかからないための思考パターンの再組織化となる
2.学習過程の結果批判能力を失うのではなく、当該団体のリーダーに対してだけはその機能を停止させることが目標達成につながると信じようになる
3.不十分な食事や睡眠がみられるのは学習過程の結果であって、食事や睡眠の剥奪は破壊的説得の手段ではない(中には薬物を使用したり監禁を行う団体もあるがごく一部にすぎない)
4.学習過程の結果、社会適応、つまり一つ一つの状況や対象から一般法則を見つけてそれを他に応用する般化と、似たように見えるものの中から違いを見つける弁別をバランス良く適切に行う能力が一般社会ではなく破壊的カルトに適合するものに作り替えられる(このことをもって「破壊的説得」と呼ばれる)
結論として破壊的説得は、一般的な教育手法を使って、対象者の頭の中にリーダーが支配するのに都合のよい現実認識の準拠枠、つまり世界観を構築するプロセスであるということがいえそうです。小学校から(時にはその前から)の教育プロセスの成功例であり、さらにこれまで存在していた教師という(概ね)信頼できる情報源を剥奪され、全ての情報の信頼性を自ら判断することを要求される大学新入生がその餌食となるのも自然な気がします。
しかし、義務教育から高等教育の目的は(実質はともかくとして名目上は)対象者の社会適応能力を養うことと本人のその後の生活を豊かにするために必要な広い視野を獲得させる(=世界を広げる)ことであるのに対し、破壊的カルトの教育目的はそれとは全く逆の目的をもつものなのです。そうした手段の共通性に加え、全ての情報の信頼性を判断するという精神的緊張に堪えきれない場合には、単一の情報源に依存する、つまり自分の世界を狭める方向に人は流れてしまいがちです。こうした世界観の矮小化は、社会の複雑化に伴って欲求充足や問題解決の困難がますます大きくなっていく現代においてさらに助長される危険性があります。そうした社会状況を背景に、破壊的カルトは勧誘過程においても対象者の欲求や問題意識を高めることさえします。次はそうした欲求操作・情報操作を詳しくみてみましょう。
性的欲求と自尊心は人間の欲求の中でも破壊的カルトが特に注目するものです。いずれもあらゆる人間が持ち合わせており、しかもその獲得に最も苦悩するものだからです。(ある破壊的カルトは信者獲得のために売春をさせたり、逆にある破壊的カルトは極端に禁欲的な生活を強要することで、性に対して誰もが一定持ち合わせている嫌悪感を満足させます)。さらに、一般的な競争に疲れ、自分に自信がもてなくなった人も「過去にこれほどまでに慕われていると感じたり、大切にされているように思ったことはない」ぐらいの気遣いを見せると引き込まれやすいようです。こうした破壊的カルトの手口に共通しているのは、誰もが潜在的に持ち合わせているそうした挫折感を対象者とのコミュニケーションで増幅し、その解決策を提示するというものです。勝手に欠点を作り出されてしまった対象者は、同時にその解決策を提示した団体に依存するしかなくなってしまいます。そして、その団体内ではそれまで欲求を抑えていた理性を無力化させるために、意図的に集団ヒステリーに放り込まれます。集団ヒステリーの中では、同じ状況に置かれている周囲の人が満足しているように見えるため、自分の問題意識や欲求不満も解消されたかのように誤認します。こうした経験を積み重ねていくと、同じ状況、つまり同じリーダーの下での集団ヒステリーの中でしか自己実現を達成することができなくなってしまうのです。
情報操作は、対象者の心の中にリーダーにとって都合の良いイデオロギーを再構成することを目的とするのです。信者は、それ以後起こることのみならず、過去の自分の経験すらもその作り出された世界観に合致するように自分の般化・弁別能力、つまり適応能力を歪めてしまいます。集団ヒステリーの中でリーダーを絶対視させられ、あらゆる社会現象がリーダーによる解釈を介してのみ対象者に伝えられ、やはり集団ヒステリーの中でその解釈の正当性を確証させられます。さらに対象者を過去の生活環境から隔離して世界観をますます変容させます。これも不確実な世界の中で確実なものを求めようとする人間の欲求を巧みに利用した情報操作の結果です。対象者は自分が正しいことをしていて気分もとても良いから、正しいという確信をさらに深めるようになります。その興奮もいつか醒めていくものですが、その時のためにリーダーは「それはあなたの態度が不徹底だったから」という責めの情報も用意しているのです。
詳しくみればみるほど、欲求操作と情報操作との線引きは難しくなるのがわかると思います。むしろ両者は不可分のものなのです。欲求はそれを希求している自分というものを意識したときに初めて認識されるもので、それは自分に関する情報によって生み出されるものです。さらに自分に関する情報とは自分の身体内部のみならずその周囲の状況に関する情報、結局は世界観という文脈の中で初めて意味が確定するのです。さらに先に述べた承諾誘導の手法もつきつめれば情報操作と欲求操作であることに気づくと思います。違いは、より体系化することによって最終的に対象者の社会適応能力を破壊し、操作をする側に都合のよい世界観を構築する程度まで徹底するかという程度問題なのです。従って、これらを回避する方法は同様に自己表象能力を養い世界を広げるということになります。つまりより多様な情報源に接し、広い視野から自分自身を見つめ直すことに他ならないのです。
当然ですが承諾誘導の方法と破壊的説得の方法には連続性が認められ、結論として「洗脳」とは方法の点では一般的な承諾誘導・教育と同様の方法をとりながら、最終目的として対象者の社会適応能力を破壊し、承諾誘導・教育を行う者にとって都合の良い世界観を対象者の頭の中に構築する行為であるということが理解できたと思われます。実はこの点こそが、破壊的カルトへの規制の足枷となっている点なのです。つまり、様々な団体が、手法としては同じ方法を後輩を獲得・教育するために用いている一方で、破壊的カルトに対してのみ批判の槍をむけることに一定の躊躇を持ってしまうのです。実際一般社会において反社会的行為を行った団体に対して、結果として断片的に現れた現行の実定法に抵触する行為に対して民事・刑事的責任を追求するのみで、その団体自体を「反社会的である」と断じきれた例はほとんどありません。実際に民事・刑事的責任を追及されるような行為を行わしめる過程自体には特に一般的な承諾誘導や教育と差別化ができるような特徴は見いだせないからです。そこで無理に破壊的カルトだけを規制しようとすれば、「あなたにはたらきかけてくるであろう〜という団体はあなたを支配しようとしているのだ」という先入観を聞き手に植え付けようとすることになるのです。
また、「洗脳」を問題視するのであれば原理研究会といった特定の団体を学生自治の場から排除することでは真の解決には至らないのではないでしょうか。というのも、ある特定の「洗脳」を行う団体の手法は他の団体のそれと多分に共通しており、「他に『洗脳』を行う団体は(現在そして未来においても)ない」という事実が確認されない限り、「洗脳」を根絶することは不可能だからです。そもそも「洗脳」を行う団体を完全に特定するのが困難である以上、「洗脳」する側を一つ一つ弾圧するよりは、「洗脳」される側をなくす方がより本質的・効果的であると思われます(逆にそれを行わないことは、左翼対右翼の対立の構図を脱しきれないことになると思われます)。
結局大学生活で何を得るかは新入生の皆さん次第なのですが、できるだけ自分の世界を広げ、常に自分を(可能な限り)客観的に見つめ直すと同時にいつでも自分の行動を説明できるような大学生になっていただきたいと思います。承諾誘導にも用いられる一貫性ですが、それが自分の弱点にもなるということを了解しつつアイデンティティを確立し、くれぐれも「大学四(〜八)年間で自分は一体何をしてきたんだろう」と就職活動をする段になって自問するようなことにはなってほしくないと思います。
参考文献:トーマス・W・カイザー&ジャクリーヌ・L・カイザー『あやつられる心』(福村出版)
ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器〜なぜ、人は動かされるのか』
原作:原理研問題について(槌音34から抜粋) 〜第一回オリター連絡会議参考資料〜
HTML翻訳:梅城崇師
Orientation Committee 2002 @ Tokyo-University